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新英語教育研究会神奈川支部HP

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笹田巌先生を偲ぶ(1) 追悼集に寄稿

☆笹田巌さん(1957-2009)の遺稿集『教師笹田巌』を是非、若い先生方に読んでいただきたい(もちろん年齢制限はありません)。
第1巻(222ページ、厚さ1.3cm)はアルバム、追悼文、往復書簡、
第2巻(354ページ、厚さ2.2cm!)は英語授業実践(生徒とのノートのやりとりが面白い p.266)、論文、新聞投稿(朝日新聞コラム「私の視点」の担当者とのやりとり、原稿の変遷も読める)で構成。
2冊で500円(各250円)+送料350円。
笹田さんの親友で本書の編集をした萱森さん「ウィズダム」にお問い合わせ下さい:
wisdom@kzd.biglobe.ne.jp

笹田さんはTOEFL満点、教員のスピーチコンテストで2位、コロンビア大学ティーチャーズカレッジでマスターコースを修了するなど、輝かしい英語歴をお持ちでした。新任1年目の北海道で英語が苦手な高校生たちに廊下でも教室でも英語で話しかけ、反発を受けながらも最後には英語好きにさせてしまう「英語で英語を教える実践」をしていました。そして、東京学芸大附属高校大泉校舎(国際バカロレア導入)で海外からの帰国生たちにクリティカルシンキング(批判的思考)やグローバル思考の養成を加えた「全人教育」を実践しました。「生徒に教え込まない(教える時間は10~15%程度)」「テーマ設定は生徒に任せる」「What do you think? Why do you think so? Is it really true? という問いを常に浴びせかけ、思考を引き出す」という手法。「教育は対話だ」という信念を貫かれました。英語情報にだまされない能力育成がとりわけ急務だと考え、「クリティカルシンキング」を英語教育に取り入れる実践されていました。社会科と英語の教職を持つ笹田さんは英語で社会科の授業が出来る希有な方でした。
生徒と体当たりでぶつかっていく熱血教師でもあり、平和教育を模索する理想家でもありました。
そんな笹田さんの思いを多くの方に知っていただければ幸いです。
  






以下は第1集に寄稿した文章(元原稿)です。

「この追悼集の編集に携わって」  和田さつき

●訃報は意外なところから+この追悼集の編集に携わったきっかけ
2009年7月25日(土)に渓流釣りの際の事故で笹田さんが亡くなられたという報せは意外なところから、29日(水)に私の元に届けられました。それは、私が2003年度に1年間だけ英語非常勤講師として勤務していた際にお世話になった東大附属中等教育学校のK副校長から、「笹田さんが亡くなられたと、学芸大附属のO副校長に伺ったのだけれど、知っていましたか?」というお電話でした。K副校長とO副校長は国立大学附属校の副校長会のお仲間で、25日(土)の会合にO副校長が遅れていらした際に、その理由として「笹田さんが亡くなられたので…」とおっしゃったのを聞いて、K副校長はびっくりされると同時に、私が笹田先生と知人であることを思い出し、和田さんは知っているのかなと心配して、水曜日になって、お電話してくださったのでした。ご葬儀が終わった数日後でしたので、私はほとんど何もできませんでしたが、K副校長が教えてくださったおかげで。笹田さんも関わっていらっしゃった、英語の先生の研究団体「新英語教育研究会」(以下「新英研」)のメーリングリストで全国の英語の先生方にお伝えし、また、萱森優(かやもり ゆたか)さんに(以下「カヤモリさん」)に電話することができました。
3ヶ月後の2009年10月25日、新英研副会長の阿原成光さん宅(東京都保谷市)で笹田さんを偲ぶ会を行いました。ご両親、お姉さん、沖浜真治さん(東大附属中等教育学校)、笹田さんの勤務校だった学芸大附属高校大泉校舎の池田校長、カヤモリさん、私の8名でお話ししました。その後、笹田さんのお姉さんとのメールのやりとりが発端となり、カヤモリさんと私は2人でこの追悼集の編集に関わることになりました。今年2010年1月に差し上げた私のメール、「先日、阿原先生とお電話でお話ししたときに、お姉さんにご協力いただいて、笹田さんのパソコンにある論文や資料などをまとめて出版できたらいいですね、という話題になりました。追悼集というよりも生きている人と変わりない論集として。私は勝手にですが、カヤモリさんに相談しながらできたらいいなあと思っています。」という提案を受けて、2月にお姉さんから「なんとなく家族間で『弟の投稿文をはじめとした残された文章をまとめて、“軌跡”のようなものを残してやりたいね』と話していましたが、和田さんから出版の話を提案されたのをきっかけに両親がやる気満々になり、早速行動を始めたことに驚いています。」というメールがあり、とんとん拍子に話が進み、ご両親が上京されて、私とカヤモリさんと会うことになり、最終的には編集者であるカヤモリさんの主導の元、ご家族とともに私も参加して進めてきました。こうして、幸いなことに私は笹田さんのご家族と知遇を得ました。編集会議後、会食しながら笹田さんの思い出を語り合う、その席に笹田さんが居ないことだけが不思議で、なんとも惜しいことだと感じています。ああ、笹田さんがご存命のときにご家族と交流が持てていたらどんなに楽しかったか…と夢想してしまう私です。亡くなられたことが機縁になってご家族にお会いすることが出来たというのが何とも言えません。人生は不思議な縁に満ちているという感慨を持ちます。そして…、なぜだか分かりませんが、私は笹田さんのことをカヤモリさんとともに見守ってきましたし、これからも見守っていくことになると思います。
以下に笹田さんとの思い出、笹田さんとカヤモリさんのこと、編集作業を通じてご家族から伺った印象深いエピソードを書きたいと思います。

●笹田さんと私
過去10年間ぐらいお会いしていませんでしたが、2007年の夏、2009年の冬、2010年の初春、合わせて4回お会いしました。
1回目は2007年夏、渋谷で「私の知っている英語関係者で、優れた人同士を会わせたい」という企画でした。というわけでお互いを知っていたのは男性の笹田さんとカヤモリさんのみで、他の女性3人はまったく面識がない状態。笹田さんに「フィクサー和田」と看破されていましたが、私は「似ている文法事項同士をグループ化する英文法」に関心があり、現実世界では「似ている人々をグループ化すること」が得意なのです。6人で楽しく歓談、女性2名は留学直前(オーストラリア、アメリカ)で、笹田さんから有益なアドバイスをしていただきました。
2回目は2008年12月21日の慶應義塾大学(日吉)での佐藤学(東京大学)、大津由紀雄(慶應義塾大学)の講演会でした。真剣に演壇を見つめる横顔が思い出されます。
3回目は2009年2月14日の中野区の東大附属中等教育学校の研究大会で、講演会や国語の授業見学など、隣に座って語らいました。「来週の報告、よろしくお願いしますね」とお話しました。
4回目が翌週の2月21日、私が所属する新英研神奈川支部で「クリティカルシンキングを伸ばす授業実践:帰国生と考えた日本の言語教育政策」というタイトルで笹田さんに実践報告いただいた時でした。「向上心、真理への欲求、分析的思考力、多角的観点、行間を読む態度などは、思考力を活性化する対話や能動的協力的な学びによって養成される。せっかく集っているのだから教師が生徒にリピートアフターミーさせるのではなく、『それ本当なの?』『いや、私は違うと思う』などperspectiveを交換することで生徒は賢くなっていくと考えている。」「LL教室、リスニングテスト、ALT、小学校英語必修化、イマージョンプログラム(immersion program:目標とする言語の言葉だけを習うのではなく、その言語環境で他教科を学びその言葉に浸りきった状態[イマージョン]での言語獲得を目指す方法)など、英語教育は怪しい情報に振り回されてきた。教師は被害者と加害者の両面を持つ。『英語教員もひょっとしたら、善意で意図せずして“だまし”の主体になっていないか』という冷徹な自己分析が必要。生徒自身が自己の教育のあり方を主体的客観的に考え、議論する機会を保証することが不可欠。」という考えを笹田さんは皆さんに伝えてくださいました。参加者は23名で大好評でした。自己紹介で北海道時代から大泉校舎までの教員生活を振り返られていたので、なんとも言えない気持ちがします。
5回目になるはずだった7月13日は、北海道の藤川実先生が東京にいらっしゃるとのことで、カヤモリさん、私、笹田さんの4人でお会いしようとお誘いしました。残念ながら当日は大阪のご実家に戻られていてお会いませんでした。
今度こそと思って、8月1日から東京で行われる新英研全国大会にお誘いするメールを送ったところ、亡くなられる1週間前の7月18日、返信で以下のようなメールをいただいたのが最後の交信となってしまいました。
「大会へのお誘いありがとうございます。8月3日からハワイでアメリカンスタディーズの研修に参加する予定で、大会は残念ながら難しいです。ただフライトが未確定なので、うまくいけば1日参加させていただけるかもしれません。ビナード氏の資料(★http://plaza.rakuten.co.jp/shineikenkngw/で読めます)、とてもとても助かりました。世の中には、私などより先を考えている人はちゃんといて、そして『情報フィクサー』和田さんはちゃんとそのことを見抜いていてくれていることを再認識し、感謝感謝です。今後ともよろしくお願いいたします。」
このメールの文面でお分かりいただけますが、笹田さんは亡くなる時まで、student(学徒)で在り続けた方でした。共に学ぶ方を失った悲しみという以上に、日本の英語教育界には大きな痛手であり、大きな穴がぽっかりと空いてしまいました。それは誰にも埋めることは出来ないでしょう。クリティカルシンキングを授業に取り入れ、生徒が主体の対話式の授業をし、英語で社会科の授業ができる日本人の先生は、笹田さんを措いて他にいないですから。
振り返ってみますと、私と笹田さんの出会いは1992年。私は大学卒業後の1年半という短期間、三友社出版編集部に籍を置いていました。三友社出版は『Cosmos』『World』などの英語教科書、新英語研究学会の会誌『新英語教育』を出版している会社。私は三友社出版で先輩だったカヤモリさんの紹介で初めて笹田さんと出会いました。私と笹田さんは2人だけで会うことはなく、いつもカヤモリさんが一緒でした。笹田さんの大船のお住まいに2人で訪ねたり、カヤモリさんの家を笹田さんと訪問したり、笹田さんのお見合い企画(2回)をしたりしました。お見合いの1回目は「私の知っている男女の中で最も良い人間同士を引き合わせたい」という、無邪気な子どものような発想で企画したものでした。残念ながら成功せず、昨年は、その1回目のお見合いの「リベンジ」企画をしようとカヤモリさんと夢想したりしていた矢先の訃報でした。……と、書きますと私と笹田さんの関係は「濃い」ように思われるかもしれませんが、お会いした回数は少なく、おそらく20回程度。笹田さんは私にとっては常に「カヤモリさんのお友達」だったのです。

●笹田さんとカヤモリさん(+藤川さん)
カヤモリさんは笹田さんが学生時代に新英研の集まりに参加しているころからの知り合いで、早稲田大の同窓で笹田さんより少し年上。笹田さんにとってはお兄さんのような存在だったのではないでしょうか。オーストラリアに数年前に笹田さんが行かれたときに事前の相談をするだけでなく、毎日報告の電話をカヤモリさんにしていたそうですから、その関係性はほんとうに濃かったと思います。
笹田さんの訃報を知って、すぐにカヤモリさんのご自宅に電話したところ、奥様が出られて、まだ帰宅されていないとのことでしたので、手短にお話しし「直接お話します」と言って切ったのでしたが、そのあとすぐに電話が入り、萱森さんは奥様から話を聞いていたので、「どうしてなんだ?」と、私に話しながら電話で泣き崩れてしまいました…。笹田さんが亡くなられて、ご家族以外でいちばん泣いたのはカヤモリさんだったのではないかと私は思っています。正直、この追悼集を編集されているのがカヤモリさんで良かったと思っています。なぜなら、カヤモリさんは精神的に落ち込んでしまい、私と電話で話すと笹田さんのことを思い出してしまうため、話せない状態が1ヶ月以上続きました。カヤモリさんには優しい奥様と高校生の息子さんがいて、ご家族に見守られて徐々に回復できましたが、今もカヤモリさんが笹田さんを失った喪失感は言葉にできないほど大きいと思います。この追悼集を作る編集会議の過程で、私とカヤモリさんは笹田さんのご両親とお姉さんに笹田さんの子どもの頃の写真を見せていただきながら昔話を伺う機会に恵まれ、萱森さんはようやく笹田さんの死を受け入れて、癒されることができた…、というのが傍らで見ていた私が見た「真実」です。
7月に会うはずだった藤川さんのことを少し書きたいと思います。その昔、早稲田大生だった笹田さんは新英研の大会に参加され、三友社出版の社員だったカヤモリさんと意気投合、同じく、新英研に所属されていた藤川さんとも仲良しになりました。カヤモリさんの結婚式に藤川さんと笹田さんは参加されたくらい親しい3人ですが、ちょうど笹田さんが北海道の公立高校から神奈川県の私学に移られたのと同じ年、あたかもトレードするかのように神奈川県から北海道の公立高校に移られたのが藤川さんですので、少々不思議なご縁だったと思うのですが、当時、お2人は電話でそのことを話し合われたと聞いています。というわけで、藤川さんは笹田さんと頻繁に会うことはなかったと思いますが、カヤモリさんを通じて心が繋がっていたかと思います。笹田さんのご両親は2010年5月に北海道を旅行され、笹田さんが生前お世話になった方々にお会いになっていますが、藤川さんもそのお1人です。

●笹田さんのエピソード、そしてご家族のこと
早稲田の法学部を1年で退学、ニュージーランドに交換留学(かわりにスイス人のお嬢さんが来てご両親もビックリ)、そのあと再び早稲田大文学部で日本史を学ばれ、「戦後教育と日本人の平和意識」が卒論テーマだったそうです。教員になって北海道で3校、神奈川県の私立の女子校、東京都練馬区の東京学芸大附属高校大泉校舎へと異動し、英語と社会科的なアプローチを生かせる場で「水を得た魚になった気分」で帰国生たちを指導され、途中、心身共に体調を崩され、休職もされましたが、見事復活されて、「これから」というところだった笹田さん。
2009年10月の偲ぶ会で伺ったことですが、笹田さんのお姉さんはご実家でバッハをピアノで弾いて笹田さんのことを偲んでいると、魂になった笹田さんが来ているのが分かるようになったそうです。「今日もさっきまで来ていたけれど、お見合いのエピソードになったら居なくなってしまった…」とお話ししてくださいました。お見合いの話はずいぶん出ましたが、実らなかったのが残念です。お父さんが「事故に遭って…、奥さんや子どもが居たらかえって大変だったかもしれない」とおっしゃったのを伺っていて切なかったです。
その日に出たエピソードで特に印象深かったのは、笹田さんが絹の下着を愛用(私も絹が良いと思っております…)、ルイボスティーを愛飲(阿原先生が当日みなさんに飲ませてくださったので発覚)、健康に気遣っていたということでした。ご家族にしか知り得ない情報でしたので、ここでみなさんにもお伝えしたいと思いました(些末な情報ですが、意外と大事かと…)。
声を大にしてお伝えしたいエピソードは、笹田さんがTOFELで満点を取ったこと(全国で2年に1人ぐらいしかいないそうです!)や教員のスピーチコンテストで2位になったこと。お姉さんがおっしゃった「あと巌が5年生きていたら…。英語教育を変えられたかも知れませんね」という言葉が重かったです。
その後、編集会議でお会いしたなかで伺ったエピソードでは、笹田さんが幼少期に過ごした大阪のグンゼの社宅群が城壁都市のように外界から守られていて、そのなかで温かな人たちに囲まれて過ごされていたということが印象深かったです。笹田さんの笑顔の源は幸せな幼少期にあるのだなと感じました。
笹田さんのお父さんの笑顔は笹田さんそっくりで、ご家族の知性と愛情の深さは笹田さんと同質だと感じます。重ね重ね、笹田さんの不在が残念でなりません。これからも笹田さんの実践集の刊行が続くと思います。笹田さんのご家族とは末永くおつきあいさせていただきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。


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